生きてればいいよ。

新卒で青年海外協力隊。任期満了後もベナンで家庭ごみ収集屋をしている若者の生きざま。

執着

その人を、冷静な人だと感じた。

 

誰かと話した後、自分に向けられた言葉を思い返して反発する気持ちになるのは、どこかで自分はその言葉に傷ついたからだろう。

 

「知らないのに勝手に言わないで」とか「あなたの問題じゃない」とじわじわ感じていたけど、結局それは自分が当事者ゆえに冷静な判断ができていなかっただけなんだと思う。その人は、「あなたの問題じゃない」なんて突き放すべきではない、一緒に解決策を考えてくれる味方だ。

 

大学院に入学し、授業詰めだった前期が終わってから、とことんベナンに向き合うことができる時間ができた。8月から12月くらいまでは一日も欠かさず朝から晩まで机に向かい、調査の計画や実施、データ整理、論文リサーチやレビュー、発表準備などをした。途中、ベナンでの経験に関する授業やピッチをする機会ももらいながら、質を上げるためにはまず量をこなそうと思って、寝食と運動以外の時間はPCの前にいた。

 

ベナンから日本に帰国して以降、入学前までの時間と比べて圧倒的にベナンの活動パートナーたちのことを考えていた。事業の経営や調査に関する連絡量も格段に増えた。ベナンとの時差は8時間あり、18,000キロ離れているのに、活動パートナーの隣にいるようにすら感じる。

 

こういう風に時間を過ごす中で、ベナンの仲間への思い入れは一段と強くなった。これを、自戒を込めて執着と言い換える。単なる事業地(調査地)、事業の仲間ではなく、私の日常で彼らの存在は大きいし、彼らがいるから未来の自分も考えられる。大学院を修了した後も、ベナンでの活動を続けたい。より発展させたい。楽しくて思わず笑っちゃう毎日がみんなにあるために、事業を通して社会に価値を生み出し続けたい。

 

廃棄物のエキスパートになり、将来的にベナンの廃棄物マスタープランの策定に貢献するとかいいじゃん、と言葉をかけてくれた人がいたが、私の心は周囲の身近な人たちにまず向いていて、顔の見えない範囲までは正直なところ広がっていない。廃棄物は一つの軸として持っておきながら、廃棄物に関わる人たちの価値観を大切にしたい。ベナンで優しくしてくれる人たちが、幸せであればいい。

 

これまで自分が使ってきたお金、時間、感情に比例して強くなる執着。そんな私に対し、冒頭の冷静な人は、ベナンの活動パートナーの望みを叶える「解決策」を提示した。解決策とは、活動パートナーが事業を通して得たいものを達成する手段のことだ。「彼の思いの実現に僕はこういう風に貢献できる。それをやればいい話なんじゃないかな」。こんな感じだった。

 

この正論に対し反発する思いが後から込み上げてきたのは、活動パートナーの望みが達成された先に、私の居場所はもうないからだと思う。執着し、自分の未来すらも投影してきたものが、自分の手から離れようとしていることへの恐れなんじゃないか。経営がうまく行かないと嘆くふりをして、本当は私はうまく行かないことを望んでいたんじゃないか。

 

客観的な立場から言葉をもらって、そんなことを考えた。

 

ここしばらく私は盲目だったのかもしれない。ベナンの人たちに依存しているんだと思う。

反発どころか、当事者すぎた私を引っ張り上げるために大切な言葉だったと今は思う。