西アフリカ、ベナンで暮らしていて、援助慣れを感じる場面によく遭遇します。
このブログでも援助慣れについて以前にも書いたことがありますが、今回はベナン人同士での援助慣れについてです。そしてそんな人たちに対して私が思うことを書きます。
市役所の課長のぼやき
こんなツイートをしました。
「金くれ!」に疲れることがあるけど、ベナン人同士でも金持ちにたかる人はいるらしい。
— Rica🇧🇯 (@HiraoRica) November 28, 2019
👨🏾🦲課長
「あいつは働こうとしないのに奥さん2人も娶って、子供が病気になると金を無心する」
子供に責任はないから無視できないし、病院代は渡すって。断れない理由つけて金せびってくるのズルイと常々思う。
このツイートで登場している課長とは市役所の課長で、私が尊敬している人のうちの一人。
具体的に給料をいくらもらっているのか聞いたことはありませんが、課長かつ修士をもっているということもあり30万フランセーファー(約7万円)程度かと思います。市役所で働いている限り毎月定額で30万フランが入ってくるので、非正規雇用で働く人も多いベナンではかなり良い条件です。
さて、公務員ということで出身の村の人々からも尊敬を集めており、人から頼られることも多いんだとか。先日課長と話していた際、ある人から課長に電話がかかってきました。電話を終えると課長は、
「彼は同じ村出身なんだけど、仕事をやる気がない人で。それなのに子供が病気になると治療費や薬代がないと言っていつも頼ってくる」
「彼が二人目の奥さんを娶ったときなんか、私含めて周囲の人間がカンパして結婚式の費用を賄ったんだ。おかしくない?」
などと言っていました。
仕事をがんばっているのにお金がないのではなく、そもそも働く気もないからお金がなくて、突然の出費に困ったら人に金を無心するそうです。その態度にうんざりしながらも、病気になった子供には一切責任はありません。そんな子供を無視することはできないので、課長はお金を工面するそうです。
「こっちだって多くはない給料でやりくりしているのに」
ともぼやいていました。
お金を手に入れるやり方がずるい
その人の話を課長から聞いて、「まさしく援助慣れじゃないか」と思いました。
援助慣れというと、外国からの支援を受けることに慣れて地元の人たちが発展や開発に対する主体性をなくしていくことを私はよくイメージしますが、対外国人だけでなくベナン人同士の間でも起こっているという話を初めて耳にしました。
私が道で出くわす「金くれ!」と言ってくる人たち(冗談か本気かはわからない)も、「私たちは貧しいんだ。だから金くれ」と言ってきます。そして断ると、「俺の人生を見捨てるのか」と言われたこともありました。そう言われると、こちらにも罪悪感が芽生えてくるのです。「私は多少金をあげても明日の金に困るわけではないのに、断った。彼の命を見捨てた…」という風に。断ったことを後ろめたく思わせてくるのです。
そのやり方ってずるい、と私は常々思っています。
たまたま経済的に豊かな国に生まれた人々は、たまたま経済的に困窮している国の人にねだられたら、言われた通りに富を共有しなければならないのでしょうか。持っているものを「わけろ」と言われたら、わけなければならないのでしょうか。そうしなければ、相手を見捨てたことになるのでしょうか。
お金をねだられそれを断ったら、私にとっては時としてとても後味の悪いものになります。先に紹介した課長の例でも、課長は断ったら「病気の子供を見捨てた」ことに後ろめたさを感じるのでしょう。
まとめ
私は決して金持ちではありませんが、ベナンの現地水準で考えると金持ちです。経済格差に葛藤する出来事はベナンに暮らしていて多々あります。
それでも今ベナンに暮らすことを選んでいるのは私ですので、消耗しても現実に向き合い続けます。