最近、こんなツイートをしました。
ベナンの私の周りの人たちは、一緒に食事しても割り勘をする文化がない。
— Rica🇧🇯 (@HiraoRica) November 4, 2019
「次は払ってね」というより、誘ったほうがおごる。
仲間と私の間には経済格差があるのは明白で、呼ばれればおごられるのが当然と思われている節がある。
対等に割り勘で外食できる友達がほしいと言うのは、私がケチなのか。
気が付けば私自身も「私がおごるべきだ」と思い、そのくせ「食事に誘ったら相手の分も払わなきゃならない」とも思い、葛藤しています。なのに、誰かと楽しくご飯が食べたい…。
日本にいてはなかなか抱かないであろうこの葛藤をしたためておこうと思い、今回の記事を書いています。
割り勘をしないベナンの文化
ツイートにも書いた通り、私の周囲にいるベナン人の方々は割り勘をする文化がありません。誰かと食事に出かけたら、会計の時にひとりひとりが自分の分だけの会計をするというのもあまり見たことがありません。
基本的には、誘ったほうが払います。誘われた方が「いやいやここは私が出します」と言って払うのはOKですが、誘っておいて「あなたが払ってくれ」と支払いを頼むのはまずありません。
私の方が金持ちだから、私がおごって当たり前?
さて、私が普段よく関わる仲間たちと私たちの間には明らかに経済格差があります。
私は2年間JICA海外協力隊としてベナンで活動し、現在は個人でベナンに戻って生活しています。何の契約もない現在、仲間と立ち上げようとしているNGOから私はお金をもらうつもりもないので、記事を書いて少しのお金を稼いでいる以外の収入はありません。よって、協力隊時代にJICAから手当として支給されたお金を崩しながら生きています。
今のわずかな収入だけ見ると、私もエリート層ではないベナン人の月収と変わらないくらいしか稼いでいません。具体的に言うと、月1万円程度。ですが私には今のところ、協力隊の2年間で貯めたお金があります。月収こそ現地の人と変わらない額ではありますが、切り崩して生活している貯金は現地の一般の人にとっては莫大な額です。
一緒に活動する仲間を見て、また毎日のお金を必死に稼ぐ人々の姿を見て、「私は明日のお金に困っているわけではないから、自腹を切ってでも出して、手伝えばよい」と思っていました。そう思って、隊員時代にも合計10万円ほどローカルのNGOや孤児院などに寄付をしました。近しい人の携帯代も出したことがあります。寄付に馴染みのなかった私にとっては、大きな額でした。
ベナンに戻ってきてからも初めは「私の方がお金があるんだから、私が出せばいい」と思っていました。ですが、「私が誘ったから」「私の方がお金があるから」毎回おごるのは嫌になってきました。「食事に誘われて私におごられるのは当たり前」と思われ始めたようにも感じます。
見返りを求めているわけではありませんが、厚意を当然とみなされるのはなかなか気持ちの良いものではないです。
個々人の損得ではなく、個人と社会の損得で考える
また、以前にこんなツイートもしました。
知らない人に「お金くれ」と言われたらどう感じる?
— Rica🇧🇯 (@HiraoRica) November 2, 2019
個人間の損得で考えたら、私のほうがその人に多くgiveすることになる。でも少なくともベナンでは、私は色々な人から圧倒的にgiveされている。
個々人の損得でなく、社会と私の損得で考えると、自分の富を分けまいとするケチな自分がいなくなる。
私はベナンで人におごることも多いですが、それと同等かそれ以上に、これまで現地の人々にお世話になっています。家に遊びに行けば毎回ご馳走してくれるお母さんもいるし、立ち寄ればオレンジをくれるおばさんも、村に挨拶に行けばヤム芋を持たせてくれえるおばあさんも。
その人たち個人個人と私の間だけで考えると、彼女たちは私に圧倒的にギブしてくれています。私は、直接そのギブを彼女たちに返すというより他のところでギブしています。個々人の間のギブアンドテイクにこだわらず、社会と私の間のギブアンドテイクで考えるというのは、しっくりくるし、私の好きな考え方です。
それでも残る、おごり続けることの抵抗
私が誰かからテイクしている分を誰かにギブするのはとても自然なことだと思いますが、私におごられて当たり前と思いつつある人とはどうしても個人の間のギブアンドテイクに固執している自分がいます。
彼らへ毎回ギブすることへの抵抗はぬぐえず、また私にこれまでたくさんギブしてきてくれた人たちも、もしかしたら葛藤を抱えつつもギブしてくれていたのかもしれないと思いました。特に、ギブして感謝されるならまだしも、ギブされて当然と思われるならギブする気も失せます。たとえ私の方が金持ちで、私が払うべきだと周りから糾弾されたとしても。
ともに活動する仲間たち含め、現地の人たちともっと話をしたいけれど、誘ったら私が「払わなければならない」。毎日でも誰かを食事に誘いたいのに、毎日誰かにおごり続けることに抵抗があります。活動の可能性を広げてくれそうな人は進んで誘い、おごりますが、活動ではない関係の中で、私がお金を出し続けるのは「払った分に見合わない」と思っているのでしょう。
割り勘の前提で食事に誘える相手が欲しい。
そう思いつつ、葛藤しつつ、ひとりでごはんを食べるのでした。
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