「私はこれがやりたい!」と言う人と、「私にはこれをやる必要がある!」と言う人では、どちらを応援したくなるでしょうか。
私たちのNGOの会計係の仕事に興味がある人たちと面接をし後日結果を伝えたところ、「僕にはこの仕事が必要なんだ」と食い下がった人がいました。そのとき私は、「必要」と言われたことに違和感を持ったのでした。
今回は、そんな最近の出来事から思いだしたこと、また感じたことを書きます。
会計係のある候補者のリアクション
先日の記事では、NGOの事務局長が決定したことについて書きました。事務局長決定後、引き続き登録に必要なメンバーである会計係を探していました。
事務局長がチームに加わったことに関する記事
人づてに私たちのNGOの会計係の仕事に興味がある人を募り、結果5人が反応してくれました。うち4人と面接し、結果を出したのが先日のこと。
「この人を仲間にしたら、団体の活動も伸びそう」と思った人に連絡したところ、「信頼してくれてありがとう!選んでくれてとても嬉しいです」などと感謝の言葉を伝えてくれました。最終的に彼を選んだのは、
- 相方ダウダからの信頼度
- 足りない力をすでに補い始めたやる気
- 既にゴミ収集を行うNGOの会計部門で働いた経験
などの点に惹かれたからです。
さて残りの4人に結果を伝えたところ、そのうちの一人が「僕には本当にこの仕事が必要だったのに…」と返信してきました。
・・・「必要」ってなんだ???
私はその反応に興味を持ちました。「必要ってどういうこと?」とそのまま返信もしました。また、そのリアクションから、以前私がある人に言われたことを思い出していたのでした。
「やりたい」を応援したい。経営者の方の言葉
協力隊の任期を終えて日本に帰国した私は、再度ベナンに来るまでの3か月間日本で過ごしていました。その間にある団体を経営する方とお会いする機会があったのですが、上述の彼のリアクションは、経営者の方の言葉を私に思い出させたのでした。
経営者の方にあったのは、私がベナンに戻ってこようとすでに決めていた頃。自分からガツガツいかず、またその自分の熱をうまく伝えない私へのアドバイスだったと私はとらえました。
その方は、
クラウドファンディングの企画で「〇〇したい!」と見ると応援したくなるけど「〇〇する必要がある!」と言われると応援する気は起きない。
との趣旨のことを言っていました。
ベナンに戻って活動を続ける理由を、「相方のダウダのため」と語った私への言葉でした。「他人のため」か「自分のため」かでもやもやしていた私。「他人のため」と言ったほうがかっこよく聞こえると思って、私自身のわくわくを表に出していなかったのでしょうね。
その方曰く、結局みんな自分のために行動している。
自己満足と言われるのが怖くてそれを認めずに「誰かのために!」とか「やらなきゃならない!」と行動する理由を自分の外に求めるのではなく、「自分がやりたいからやるんだ!」と言ったほうがむしろ説得力がある、と。
そして何らかの課題に取り組む場合の多くは、
「やる必要がある」=「誰かのため」
「やりたい」=「自分のため」
だと私は思います。たとえば、人々の健康のためにゴミ問題に取り組む必要がある、とか。
そんな言葉たちを、「その仕事が必要だった」とモチベーションを語った、会計係の候補者のリアクションを通して思い出したのです。
「やる必要がある」と言われて感じたこと
「僕にはその仕事が必要だった」との返信の後、「必要ってどういうこと?説明してくれ」と返しました。すると、
「その会計のポストの情報を得て以降、毎晩夢にまで見た」
「そのポストに就ける前提で、既に学んだことの復習をしている」
「お金が必要というのももちろん」
ふむ・・・。
私たちの団体の仕事は今のところ給料なしの前提で声をかけていたのですが、働いていれば何かがもらえるのを期待するのは当然ですね。彼のように職がない若者たちを多く知っているので心苦しいですが、職がないのは最終的に選んだ彼も同じ。なんならその他の候補者も、みんな。
あとは、外国人の勝手な言い分かもしれませんが、お金のために働くというよりは活動へのパッションが欲しかったです。「やる必要がある」より「やりたい」と言われる方が、熱を感じる。信じたくなる、応援したくなる。結局のところ、そうなのかもしれません。
まとめ
以前言われた、「やりたいと言う人を応援したくなる」。言われる側になって、その気持ちがわかるようになりました。「必要がある」と言われても、パッションを、熱をあまり感じません。
逆に言うと、他人を動かしたいとき「〇〇をやりたい!」と言い切ると相手の気持ちも巻き込みやすいのかもしれませんね。